苦しみと悲しみを乗り越えるときサイコパスになるが真正サイコパスにはなれない

苦しみと悲しみを乗り越えるときサイコパスになるが真正サイコパスにはなれない
こんにちは
yoshi(@yoshiblogsite)です。
近頃サイコパスという言葉をよく聞くようになったと思います。
サイコパスというアニメが流行ったので、そこから知る人が増えたのかもしれません。
とはいえ
「サイコパスってなんだろう?」
「医者や経営者や教師はサイコパスが多いというけどなんで?」
「苦しみや悲しみを乗り越えてサイコパスになってしまわないか不安」
など、よくわからずにサイコパスといっていることもあるでしょう。
NetflixでThe100(ハンドレッド)という海外ドラマを見ていたのですが、色んな人がいろんな事情で人を殺しまくっていて、「サイコパスとはなんぞや」みたいになったのでこの記事を書くことにしました。
今回はそんなサイコパスについて考えてみましょう。
結論:医学的サイコパスと真正サイコパスは別物
もっとも重要なポイントとして、医学的にサイコパスと非常に似通っている精神状態の人と、本当に危険なサイコパスは別物です。
サイコパスのチェックリストとしては
- 良心の異常な欠如
- 他者に異常に共感しない
- 慢性的に嘘を付き平然としている
- 責任を一切とらない
- 罪悪感が皆無
- 異常に自己中心的
- 容姿端麗ではないのに非常に魅力的
- 結果至上主義
こういった精神状態を持つ人はわりとたくさんいますよね。
【異常に】とか【一切】とか【皆無】のような形容詞を除いたときは、あなたも1つも当てはまらないということはないでしょう。
僕の周りにもたくさんいますし、会社やSNSをみたら目に止まらないときはないくらい溢れています。
サイコパス性を持つ人は小さな行動から大きな行動まで、徹頭徹尾その状態が貫かれていてある意味芯があるようです。
しかし医学的にサイコパス性のチェックリストに当てはまっていてもサイコパスではないのはなぜでしょう。
それはたった1つのポイント
反社会性があるかどうか
これだけです。
反社会性が真正サイコパスの判断ポイント
真正サイコパスは「幸せになる方法とは何か【歴史上の偉人たちが見つけたたった1つのシンプルな答え】」で紹介したようなダークトライアド、ダークテトラッドといった複合的な特徴が異常なまでに見られます。
そして、衝動的だったり反社会性行動が慢性的に見られます。
その上で罪悪感は皆無ですから、例えば人を単純に殺すくらいなら罪悪感なくしますし、惨たらしい殺し方で殺しても一切の良心の呵責は受けないようです。
真正サイコパス性が低い人は、万が一そんなことに手を染めてしまったら精神崩壊するほど悩み苦しむでしょうが、真正サイコパスは一切そんなことは感じません。
「この人話し通じないなー」
という人は多かれ少なかれいますよね。別の世界に生きているような人。
それが社会的に【悪】だとされている例えば殺人について責められても、一切の良心の呵責は受けずに例えば「なぜ喉が渇いているのに水を飲んではいけないのか?」というレベルで通じません。
伝説の英雄たちはサイコパス?
人が死ぬことに対する罪悪感の点でいったら、歴史上の伝説の英雄たちは全員がサイコパスになるのでしょうか?
背景を考えるとサイコパスには当てはまらないでしょう。
あくまで【反社会性】という点が重要なポイントですから、その時代背景として敵国の人をいかに大量に殺戮するか、そうして自国の領土を拡大するか、ということが重要視されている社会であれば、それは反社会性はありません。
現代日本という社会の基準に照らし合わせると、英雄たちの生きた時代の社会は国家レベルの粒度でサイコパス性の高い状態になっているため、個人レベルではむしろそれが称賛されるような社会だったということです。
国家レベルの粒度では日本は幸いなことにサイコパス性の低い社会です。
人は殺してはいけない
【現代社会の】日本人にとっては当たり前のことですが、こんな社会に生きていられることは世界基準からみたら非常に恵まれている社会です。
日本は真正サイコパス性を反社会性がある、とできている社会だからです。
もしかしたら一部の村や団体レベルの粒度ではサイコパス性の高い場所もあるかもしれませんが、万が一そういうものがあってその小さな村社会や団体社会の中では認められていても、国家レベルで見たら反社会性の高い村や団体だとなるのが日本です。
世界にはまだまだ生きるために人を殺して物を盗む地域もありますし、そういったことに一切の罪悪感を持たないという、日本基準でみたらサイコパス性の高い人たちがいますから、世界を旅行するときは気をつけたいところです。
苦しみや悲しみを乗り越えたらサイコパスになるか
苦しみや悲しみを乗り越えるとき、サイコパス性が上る可能性があります。
本来苦しいはずの感情を切り離すことで、まともな生活ができるようになりますよね。
苦しみや悲しみにずっと沈んでいたらそれはそれで動けなくなって死んでしまいます。
苦しみや悲しみのような辛い感情をある意味言い訳をつけて【仕方ない】とし、その環状への執着をすてて前に進むことができるようになると、次にそのような辛いことが起きても同じように対処していくことができます。
辛い感情を乗り越えて強くなることで、何かを犠牲にして何かを得る、どちらかの命を救う、というような究極の場面も乗り越えられるようになっていきます。
人の命の優先度を毎日判断しているような医者や、リストラを考える経営者はこれらの感情を乗り越えなければおそらく自殺してしまうでしょう。
誰かを見捨てて誰かを救わなくてはならない状況を乗り越える仕事は、必然的にサイコパス性は鍛えられてしまうでしょう。
ただ、当然ながら真正サイコパス性は上がりません。
つまり医者や経営者などサイコパスが多い仕事にすでについている人や、これからそういった職業についてサイコパス性が上がるように成長していく人も、反社会性は上がらないために真正サイコパスにはならないのです。
これは、修行を重ねた仏教僧が反社会性を一切持たないままサイコパス性の高いその脳構造を手に入れているという研究結果からもわかるものです。
悲しみや苦しみ、悩みを乗り越え、何かが起きても瞬時に中庸の心の状態に戻すことができるという脳構造は、サイコパスににています。
- 嘘をつく→苦しい
- 人を殺す→苦しい
- 自己中心的になる→苦しい
苦しみや悲しみの感情をコントロールできる脳構造を持てば、本来自然と湧き出る苦しみや悲しみもニュートラルに戻すことができます。
真正サイコパスは苦しみがそもそも発生しませんが、鍛えられてサイコパス性を上げた人は苦しみや悲しみを感じつつも、自分が望めば感情をコントロールしてニュートラルに戻すことができるようになります。
本来苦しみや悲しみを持つべきところは失わずに、不要な苦しみや悲しみのみをニュートラルにするので、真正サイコパスにはならないのです。
真正サイコパスは幼少期からその徴候が見られる
三つ子の魂百までといいますが、根本的な正確は幼少期から変わらないといいます。
そして反社会性を持つ真正サイコパスは幼少期からその徴候が見られるそうです。
ある意味生まれる時代と社会を間違えてしまったのかもしれません。
もし戦国や幕末などの殺人が横行していた時代なら、そういった人は暗殺者や拷問人が適職だったかもしれませんが、少なくとも現代日本においては反社会性が高いと判断されるでしょう。
真正サイコパスの人は本来の自分を出したら死刑や無期懲役になると思いますが、たぶん捕まったところで罪悪感がないので反省はしたくてもできないでしょう。
それは例えば僕たちが急に「明日から水を飲んではいけない」と言われたとして「は?なんで?死ぬじゃん。」となるレベルで理解されないでしょう。
なぜそういった人が生まれてくるのかはわかっていませんが、心の底からサイコパスな反社会性の高い人と、後天的に身に着けていった医者や経営者のサイコパス性は全くの別物だと思って良さそうです。
まとめ:苦しみと悲しみを乗り越えるときサイコパスになるが真正サイコパスにはなれない
いかがでしたでしょうか。
苦しみや悲しみを乗り越える時、それは果たして乗り越えて良いのか?一生苦しむべきでは?と思うこともあります。
苦しみを忘れてしまったら人間性を失うのではという恐怖感を覚える人もいると思います。
無意識にサイコパス性が上がることを警戒しているのかもしれません。
ですが、悲しみや苦しみと向き合い乗り越えて強くなったとしても真正サイコパス性は上がりません。
社会性のある人は、いくら鍛えてすぐにニュートラルに戻せる状態になったとしても、少なくとも一瞬はその心の痛みを感じることになります。
なので安心して悲しみや苦しみは乗り越えていけばいいと思います。
悲しみや苦しみはないでしょうが、普通の日常生活が苦痛で仕方ない反社会性を持った人は、それが認められる国(あるのか知りませんし、あったとしたら地獄でしょうが。。。)にいかない限り少なくとも日本では、本来の自分を出すことなどできないでしょう。
このブログでは毎日更新で「過去の自分が知りたかったこと」をジャンル問わず書いているので、もしあなたの役にも立ちそうなことを書いていたらまた読みに来てください。