【モチベ系】何かをするときに他人の評価はあまりにも当てにならない件
【モチベ系】何かをするときに他人の評価はあまりにも当てにならない件
久しぶりにモチベ系ネタを。
人類というのは昔から現在まで、あまりにも他人の評価を気にしてしまう生き物です。
人間が一般的に社会的生物だとすると生存戦略として仕方のない性質ではありつつも、いつも心にモヤモヤをかけてしまいには精神病やうつ病、やる気の減退につながっていく人までいるやっかいな性質です。
学校では偉人たちの成功した話、成した偉業や功績の話しか学びませんが、その1つ1つが下手すれば何百回何千回の失敗や挫折の礎の上に作り上げられたものです。
その1つ1つがきっと涙なしには読めないようなハートフルストーリーでしょう。
1回きりの人生で何かしら1つでもやり遂げるということは、単純な話「他人の評価を無視して頑なに失敗を繰り返し続けてもやりつづけること」なのかもしれません。
例えば人の親が他の人に何を言われようが、失敗を繰り返してなんだかんだで子供を育てるように。
ウォルト・ディズニーが「想像力にかけた人間」と評価されて、何度も破産していたのを聞くと本当に他人の評価というのは当てにならないなぁと思います。
成功するかどうか誰かが評価できるなら、その人自身がその成功を掴めるわけでして、それをしないということはその評価は当てにならないということになります。
かといって自分が自分自身に下す評価についても、未来は誰にもわからないわけですから全く当てにならないということになります。
自分も当てにならないし他人も当てにならない。
本当は誰かを当てにできたら未来が約束されて楽なんですが、残念ながらこれがこの世界の真実であることは間違いないでしょう。
他人の評価を気にしたところで根源的に当てにならないので意味がない、自分が自分のことを駄目だと評価を下したところでこちらも全く意味がない。
評価を下そうが下すまいが何も変わらないのです。
そんなこの世界の中でできることは、ただひたすらに続けること。
これが機械だったら同じことをひたすら続けていたら同じ失敗を何度も繰り返して進歩しません。
しかし人間は機械ではなくもっと複雑な「何か」なので、ただひたすらに続けていればいやでも成長してしまって成功率が上がっていきます。
それが人間の寿命の範囲内で成し遂げられる規模のものなのか、後継者にたくしていかないといけない規模のものなのかは多種多様ですが、何故か無駄にならないのが生命活動です。(一言に一人の人間といっても、その実態は無数の細菌やウィルスなども共生している集合体なので、なんかみんなでいい感じにしてくれるのかもしれません。)
それが目標を持っていれば他人がどう評価しようが自分がどう評価しようがそこに向かっていくので、いつか辿り着くというわけです。
ただ、辿り着いたところでそこに求めたものがあるかどうかは、そのときにならなければわからないのもこの世界の不思議な仕組みの1つです。